お燈まつり・お灯まつり  「おとう」に上ってきました。その1

 弘祥も新宮の生まれです。ですが現在、この歳までお燈まつり・お灯祭りに上ったことは、ありませんでした。もっぱら、翌日の7日に毎年毎年たくさんの方の手当をしてまいりました。

おとうは、今から1435年前の西暦574年正月二日に神倉山が光を放ち、翌年正月六日夜、神倉火祭り始まると記される程歴史のある女人禁制のお祭りです。

ですが、このお祭りには、男と女の役割分担があるのです。神倉山に上るのは、男の役目と言うことです。

地元では、書き表すとお燈まつりまた、お灯まつりとも表現するのですが、呼び名は、ここ熊野の地元では「おとう」と呼んでいます。「おとう」へ上ると言うと、このまつりに参加することをさします。

神倉山は、自分も高校の時のクラブ活動でよく上ったり、下りたりを繰り返してトレーニングでよく行っていました。また、成人してからは、熊野を訪れた友人や同僚の先生や日本ダウザー協会の堤裕司会長や故忍田 光先生、引き受け氣功の藤谷康允先生その他たくさんのお客様をお連れしてのぼることはよくありました。

神霊に詳しい知人が話されていたのですが、この「おとう」には、のぼれる時(上らしていただける時)が、あるそうです。自分の父は、その昔50年余り前の若い頃に一度上ろうとして、松明や白装束、荒縄など全て用意万端整えていたそうです。ところが迎えた2月6日の祭り当日に、まったく前の日までピンピンだったにもかかわらず、原因不明の40度を超す熱が急に出たそうです。それで、周りのみんなが必死に父が上るのを止めたそうです。当時のおとうは、お店なども早くに閉めるくらいに荒れてけんかの絶えない祭りだったと聞いたことがあります。父の若い頃の写真からして、上っておれば、たいへんなことになったのでは、ないかと思います。そして、父はそれ以後上っておりません。

 自分は、学校を出て、東洋医学や鍼灸、整骨、氣功などの修行を終えて開業するため、熊野に帰って来た時、おとうに上ろうとしたことがあったのですが、自分の場合もある先生から、「自分(あなた)はね、時期が来たら上れるから、それまで待つ方が良い。どうして、? と思うやけど、それも時期が来たらわかるやろうからな。それまで…」と言われておりました。このことについては、また、先の機会に書いてみたいと思います。

 そして、その時期が昨年の11月くらいにやってきました。早速、11月の23日にあった鵜殿神社の例祭で、はじめて御神輿を担がさせていただきました。

 2010年の年が明けた時、おとうに今年こそは、上りたいと思っていましたら、患者さま方が、色々と教えてくれたのでした。それも、本当に不思議なくらい、「あれは?」「これは?」と思っていると、その時その時におみえになった患者さまが、診療の時に答えを教えてくれたのでした。

そのうち、子供が小学生の時に一緒に上っていたが、中学生になって武道の仲間達と上るようになり、5年程上っていらっしゃらなかった当院の患者さまであるご主人のお話しをその奥様が診療におみえになった際に、お話しをしていただきました。詳しく伺がっていたら、主人が「今年は、ひとりでも上ろうかな。」とお話しされていると聞きました。それで、「自分で良ければ、一緒に上りますが、ただ、自分は、初めてなので、連れて行ってもらってもいいですか?」と伝えました。そして、一緒に連れて行っていただけることになりました。 

おとうに初上りを決めまして、患者さま方から教えてもらったお店で白装束を買い求めよう、荒縄と草鞋(わらじ)を買い求めよう、松明(たいまつ)も用意することにしようと決めました。すると、白装束も、「先生、装束買っって来たら一度洗濯を忘れないようにね、でないと装束燃えやすいからね。あちこち焼けて穴あくからね、だから、洗濯を忘れないようにして下さいね。昔、うちの主人が初めて上った時、そんなこと知らないで洗濯せずに上ったら、山から下りてきてびっくりしましたよ。背中一面なくて次の年のお灯の時に新しい装束を買い直したんですよ。」とこれも患者さまが、教えてくれたのでした。

(つづく)

 

 

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